私は戦争を知らない

私は戦争を知らない。

知る機会があったのに聞く耳を持たなかった。

自分には関係のない事と思っいた事もあるけど、聞くこと自体が怖ろし

かったからだ。

私が産まれたのは、昭和20年代の中期だ。

父は従軍している。

招集年齢には達していなかったけど、養子に出た長男以外に次男はすでに従

軍しており、戸籍上の3男だった父は父親から

「長男(次男)以外はいらないから戦争に行け」と言われ志願兵と

して出兵したそうだ。

田舎に居たために、空襲も知らず戦争の何たるかを知らずに従軍したのだった。

集合場所から船に乗せられたけど、ずっと船倉にいたので自分たちがどこに

向かっているかは知らなかったし、知らせられる事もなかった。

ただ、毎日、少しづつ暑くなって行くので南方に送られると言う事が分かり

生きて日本に帰るという望みを捨てたそうだ。

戦地に着いてからも自分たちがいる場所も分からず、次々に場所を移されて

は、自分たちが昨日までいた所が全滅したと知らされ、帰国の望みは完全に

絶たれたそうだけど、辛うじて終戦を迎える事が出来て帰国した。

ちなみに、父の兄は南方で戦死している。

終戦後もすぐには帰られなかったのと、日本に帰国しても北海道まで戻るに

は長くかかったそうで、空腹と疲れでボロボロになって帰宅した時に、父親

からの第一声が「お前は〇んでもいい、兄(次男)でなくて、何でお前が帰

って来た」と言われたそうだ。

母は、今で言うと中学生くらいの年齢だったけど、家に招集年齢に達する男子

がいなかったために、本州の軍需工場に行き飛行機を作っていた。

それを聞いた私は「かあさんが飛行機を作ったから戦争に負けたんだわ」と

笑って言ったものだ。

空襲で爆弾が落ちてくる話を聞いた時は、空を見て落ちてこない所に逃げたら

良いのにと、また笑ってしまったが、爆弾はバラバラと表現できるくらいに空

から落ちてきて、そこかしこに悲惨な状態の遺体があったと言う。

こういう話を聞くのが嫌で、戦争の話をされると遮っていた。

もっと話を聴いておくと良かった、次の世代に伝えるだけ聞いておくとよかっ

たと気づいた時は、すでに年齢を経ていた。

戦中から戦後にかけては食糧は配給で、『米穀通帳』と言うものを各家庭が

持っていた。

もっとも、戦後の色が薄くなるに従って、配給米という言葉だけで、ほとんど

が自由に米を買っていたらしい

昭和40年ころに看護学校の寮に入った時も、家庭の米穀通帳から一人分を分

筆してもらい、それを持って入寮した。

この通帳はずっと家にあって、通帳の事を聞いた娘は『米国通帳』だと思った

そうだ。

私が産まれたのは戦後と話したが、お祭りでは白い着物を着てアコーディオン

を弾く傷痍軍人がたくさんいて寄付を募っていた。

母に言わせると、ほとんどが偽の軍人だという。

また、仕事の関係で高齢の方や一緒に働いた人から、戦後の引揚げ時の話を

聞く機会がたくさんあった。

台湾から、中国から、樺太からの話だった。

いずれも、着の身着のままで日本に帰って来たそうだ。

中国からの引揚げでは、守ってくれていた大方の日本軍が先に逃げてしまった

為に、頭を丸坊主にして顔に炭を塗って女性に見えないようにして、長い長

い道を歩き、家族が必死になって船を探し帰って来たそうだ。

樺太からの引揚げでは、船で赤ん坊が泣くと見つかるからと、周りから非難

され泣く泣く赤ん坊を風呂敷に包んで海に流した人もいたそうで、動いてい

る風呂敷が動かなくなるまで見ていたそうだ。

思いだしたくもない事だろうけど、今まで誰にも言えなかった、戦争の事を

知っておいて欲しいと言い、話してくれた。

その時のおばあちゃまは、すでに90歳を超えていた。

その年齢までを、自分だけで苦しんでいたのが伺えた。

太平洋戦争を知っている年代は、物心がついていた時期を考えると今は80

歳位~90歳を超えている。

学校では教えない歴史が、いま、少しづつ明らかになっている。

子供には聞かせられず、家族にも秘密にしてた事を話してくれた人がいる。

戦争は、戦争をしている時だけだはなく、終わっても戦争が続く。

引揚げの時も、国に残っている人達も、そして終戦から何十年も経ってから

も記憶として残っている。

ましてや、ウクライナやポーランド、ヨーロッパ、中東の人たちの戦争は

最近の事で、今なお難民として悲惨な目に遭っている人たちがいる。

ロヒンギャ難民やウイグルの人たちの事も忘れてはならない。

ポーランドとベラルーシの国境近くの森から、動けなくなっている難民の人た

ちがいるが、ボランティアは入れない場所で、入れても欧州最古の原生林と言

われるくらいに道が分からないそうだ。

GPSを頼りにしようにも、携帯電話はベラルーシに取り上げられ、ベラルーシ

に戻るには賄賂を要求される。

その人たちをベラルーシ国内に入れたのは政府で、高いお金で戦火の中から

逃げてきたけど、国内に居られたのはほんの少しの期間で、出て行くように

いわれ、どこにも行かれずに国境付近の原生林に居る。

ベラルーシにも戻れず、ポーランドにも入られずに。

あまりに悲惨で、聞いた話も伝えられずにいたけど、いつかはこの事を子供に

話さなければと思っている。

自分が生きているうちに伝えなければと考えている。

ウクライナでの侵略が早く終わる事を、つよく願っている。

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